澤熊講師と行く・・・    2009年11月17日

全八回シリーズの第
A回目
桑名宿と宮宿〔七里の渡し〕








七里の渡し
七里の渡しは、宿場の宮宿(名古屋市熱田区)から桑名宿(三重県桑名市)までの海上の渡しで、
1601年(慶長6年)の東海道制定の際に定められた。東海道で唯一の海上路です。
七里の渡しの名称は、移動距離が7里であったことに由来します。船によって移動し、所要時間は
約4時間で、「桑名の渡し」・「熱田の渡し」・「宮の渡し」・「間遠の渡し」などとも言われていました。
【7里 = 27.49km 】





桑名宿

桑名宿は東海道42番目の宿場で、現在は三重県桑名市。脇往還佐屋街道もここから
分岐していました。
徳川四天王の本多家のほか、各・松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町です。




ココは伊勢国の東入口にあたるため、天明年間(1781〜1789)に、伊勢神宮の
「一の鳥居」が建てられ、以来伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。



明治42年秋、泉鏡花は講演旅行のため、後藤宙外・笹川臨風らと共に
桑名を訪れ、小説『
歌行燈』は、その時の旅情をモチーフにした作品です

泉鏡花の小説・歌行燈の筋書きを簡単に述べると
恩地喜多八は能のシテ方宗家の甥であったが、謡の師匠宗山と腕比べを行い
自殺に追い込んだために勘当される。宗山には娘お三重がいたが、親の死によ
って芸者となっていた。
肺を病み流浪する喜多八は偶々お三重と会い、二度と能をしないとの禁令を破っ
てお袖に舞と謡を教える。
喜多八の伯父の前でお三重が『海人』(観世では『海士』)の「玉之段」を舞う場面
がクライマックスといわれています。
1943年に成瀬巳喜男監督、花柳章太郎、山田五十鈴主演で映画化され、1960年
には衣笠貞之助監督、市川雷蔵、山本富士子主演で再度映画化されました。

原文を紹介しておきます。現代の私たちには読み下し難い文章ですが・・・ココ



桑名神社と中臣神社の両社を合わせて桑名宗社といい、古来から桑名の総鎮守として
崇敬されてきました。
永仁4年(1296)に奈良から春日大明神を勧請して合祀したため、「春日さん」の名で親
しまれています。




正面の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に
至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されています。

隣接の公園は、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにし
て造られています。



いよいよ「七里り渡し」体験船旅の乗船です。
生憎の雨ですが、船中は結構賑やかでしたョ
.



ゆっくり・のんびり、映り行く景色を愛でながらの昼食です。
 
あッ、長島温泉のジェットコースターが見えてきました



船は伊勢湾を過ぎ、川幅の狭い堀川へ・・・
行き交う船の安全の為の水上信号機が珍しい



桑名宿乗船から約2時間40分、正面に宮の宿(熱田)が見えてきました。



宮宿は東海道五十三次の41番目の宿場で、中山道・垂井宿にいたる脇街道の美濃路や、
佐屋街道との分岐点でもありました。一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や
尾張藩の公文書では熱田宿と書かれています。
東海道でも最大の宿場であり、天保14年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し
家数2924軒、人口10,342人を数えたといいます。古くからの熱田神宮の門前町で、港町で
もあり、尾張藩により名古屋城下、岐阜と並び町奉行の管轄地とされていました。








七里の渡し・体験乗船のあとは、バスで約10`・・・有松絞りで有名な有松へ向かいます。
絞りの町有松は、江戸時代の初め、徳川家康が江戸に幕府を開いてまもない慶長13年1608年)に、
絞り開祖竹田庄九郎らによって 誕生しました。
有松絞り400年の歴史は、尾張藩が有松絞りを藩の特産品と して保護し、竹田庄九郎を御用商人に
取り立てたことからはじ まりました。
旅人が故郷へのお土産にと、きそって絞りの手拭、浴衣など を買い求め、これが街道一の名産品と
なり、その繁栄ぶりは、北斎や、広重の浮世絵にえががれたが、
広重の鳴海の宿は有松を描いた
もので、画題は
「名産有松絞り」と記されています。




次回「東海道の宿場と峠」シリーズ3回目は、御油宿と赤坂宿
12月中頃の予定で御座います。