2009年4月9日
山城探訪ハイク 第7回
木の芽峠一乗谷朝倉氏遺跡






木の芽峠目指して

今庄町と敦賀市を隔てる木の芽峠は、『日本紀略』によれば、その歴史は西暦830(天長7)年まで
さかのぼるとか。以来古代北陸道の通る道となったこの難所。南北朝時代には、新田義貞の軍勢
の多くが凍死したという悲話も伝えられています北陸自動車道で難なく越えられるようになった今
でも、石畳の道とわらぶき屋根の茶屋はそのままに・・・当時の人々の往来を思い浮かべながら、
約4kmの道のりを歩いてみました。                          (敦賀観光協会HP参考)



木の芽峠
1200年の間、越前の玄関口としての番所があり前川家がその任に当たってきました。
この一帯は度重なる古戦場として使われ、一向一揆の頃の城址が多く有りそうですが
今は、崩れかけた石垣だけが、当時の面影を残しています。



福井テレビの取材帳より
福井県南条郡今庄町には、木の芽峠という県境の峠がある。道元禅師や親鸞上人など歴史上数多くの
有名人がここを通って越前に入った。峠には一軒茶屋がある。そして、代々前川一族がここを守ってきた。
彼は本物の士族である。現在は町の語り部ナントカ事業によって、建物の管理と歴史の開設をする立場に
甘んじているが、本来なら越前藩主のもお目通りがかない、藩主から三番目の場所にも座ることができる
立場にあった。まあ、それだけこの峠という立地条件が地政学的に重要であるということだ。
今、前川士族は自然とともに生きている。夜明けとともに目覚めこの峠を通った人物の霊を慰める。後は山
芋を掘ったり、突然訪ねてきた俳句好きのおじさんなど相手をしてお昼を過ごしている。たまに歴史の勉強
を兼ねて小学生などが訪れるときなどは、職務をしっかり遂行している。茶屋の片隅には「木の芽峠グッズ」
がおみやげとして販売されているが、この販売には余り積極的ではないようだ。
そんな前川士族であるが、彼は見廻り奉行と切っても切れない縁がある。彼は「廻国巡見使」を知っている
のだ。「達者でござる」の主人公越前屋俵之助はタイムスリップした見廻り奉行という設定だが、見廻り奉行
はこの「廻国巡見使」に存在の根拠を求めている。「廻国巡見使」については、福井の郷土歴史家である上
杉喜寿さんの著書「歴史街道」に詳しい。将軍は諸藩の実情を把握するためにいろんな人物を派遣したが、
陰のスパイが「お庭番」でおもての視察者が「廻国巡見使」である。「徳川幕府においては、将軍の死没さ
れた年か、或いはその翌年あたりに各藩あてに巡見の予告が出されこれを受けて各藩では準備に入った」
とこの本にある。さらに「巡見使は江戸出発に先立ち、幕閣の要人から、旅先で放埒であってはならぬと厳
重に申し渡された。だから、行く先々ではかたくなに一切の 饗応を排除し続けた。しかし順路の先々では、
それぞれ土地の名物、珍品を皿に盛り、膳の上を飾ることにつとめた。」そうである。なんと人間味あふれた
ことか!この辺りが俵之助の精神構造に近いのかも知れない。


木の芽峠からの下りは、「365スキー場」へ降る


北インターレストハウス〔昼食〕





一乗谷朝倉氏遺跡資料館
一乗谷朝倉氏遺跡はわが国を代表する戦国時代の遺跡で国の特別史跡に指定されています。
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は、その前身の福井県教育庁朝倉氏遺跡調査研究所以
来、一乗谷の発掘調査環境整備調査研究にあたっており展示施設は昭和56年(1981)8月
に開館しました。



越前朝倉氏は、室町時代の末期15世紀後半から16世紀にかけて活躍した大名です。
初代朝倉孝景から朝倉義景まで5代百年にわたって越前の一乗谷を根拠地としまた
一族を敦賀郡や大野郡などに配置して一国を支配しました。そして室町幕府や近隣の
大名と深い関係を保ち、この地域に大きな影響力を持った戦国大名です。



一乗谷朝倉氏遺跡
特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡は日本列島の本州の日本海側のほぼ中央部福井平野の
東南部にあります。遺跡の中心部を流れる一乗谷川に沿って平地部分を上城戸と下城戸
という大きな土塁で区切り、その内部の城戸ノ内に当主の館を中心とする一族の屋敷や、
武家屋敷寺院町屋などの遺構が良く保存されています。その東西両側の山上や山麓に
は山城や櫓跡が残っています。城戸の外にも大規模な寺院跡などがあり、城下町がひろ
がっていたとみられます。











復元街並み



足利義昭を擁立した織田信長は、朝倉義景に上洛を要請、しかしながら義景は拒絶し
朝倉討伐の大儀名文を得た信長は、永禄13年(1570)朝倉討伐のため越前に進軍。
越前へ侵入して手筒山を難なく落とし金ヶ崎城を包囲した。しかし、ここで思いもかけない
信長の妹を妻とし味方であるはずの
浅井長政が、義景救援の軍をおこしたのです。
不意を食らった信長は直ちに金ヶ崎を撤退し、近江の朽木氏を頼って朽木谷を越えて
ほうほうの体で京都に逃げ帰りました。
京から岐阜に戻り体制を立て直した信長は、2ヵ月後の1570年6月19日北近江
に侵攻、浅井軍と越前から来援の朝倉影健(義影の甥)軍を相手に姉川北岸の野村
三田村に布陣します。 いわゆる姉川の戦いとなるのですが其の事は5月28日の
山城シリーズ8回目小谷城&姉川の戦い」で勉強してきたいと思います。





一乗滝
(佐々木小次郎ゆかりの地)
朝倉氏遺跡を貫いて流れる一乗谷川の上流に、落差12mの荘厳な水の糸を引く
滝があります。巌流島で宮本武蔵と戦った剣豪・佐々木小次郎は、この一乗滝で
修行を積み、かの秘剣「つばめ返し」をあみだした所という言い伝えがあります。

佐々木小次郎の出身については豊前国田川郡副田庄(福岡県田川郡添田町)
に生まれ、副田庄の有力豪族・佐々木氏の一族とされる説と、越前国(福井県)
福井市出身という説がありますが・・・


次回の「シリーズ山城探訪」の8回目は、
5月28日浅井氏の居城・小谷城の予定