澤熊講師と行く
2009年10月22日

歴史シリーズ・城めぐり
名古屋城稲葉山城(岐阜城)
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2008年2月の熊本城からこころざした「お城めぐり」も、三十六回目になりました。
巡ったお城は五十超、日本にはマダマダあります、今回は尾張名古屋の名古屋城
と、金華山(稲葉山)にある山城・岐阜城(元・稲葉山城)で御座います。

大阪茶屋町==名神道=名古屋城昼食「城店」能楽堂=
=金華山ロープウェイ…岐阜城(稲葉山)…金華山ロープウェイ=名神道=大阪




名古屋城
    【名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城です。】

尾張国の東半分は永正15年(1518年)以降、駿河国の守護今川氏の支配下に置かれました。
  そして、今川氏は最前線である現在のニ之丸辺りに那古野城を築きました。
尾張国勝幡城主織田信秀(織田信長の父)が、享禄5年(1532年)に奇策によって那古野城主
  今川氏豊を追放し、ここを居城としました。
信秀のあとを継いだ信長が、那古野〜清須から小牧、岐阜、安土と居城を移していく中で、役割
  の薄れた那古野城は天正10年(1582年)ころに廃城となり、雉が多く住む野原となったと・・・
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の勝利を経て江戸幕府を開いた徳川家康は、大坂の豊臣秀頼
  との武力衝突に備えて、城の整備を進めました。
徳川家康は、豊臣がたとの緊張が高まる中、尾張国を東海道の一大防衛線として清須城に代
  わる新城造営地を調査し、名古屋(那古野)、古渡、小牧の三候補地の中から名古屋を選び整備
  を進めます。
慶長15年(1610年)1月14日、将軍徳川秀忠が、西国の20大名に名古屋城普請(土木工事)の
  助役を命じました。
  西国の20大名とは、前田利光・金森可重・浅野幸長・池田輝政・生駒正俊・蜂須賀至鎮
                山内忠義・加藤嘉明・福島正則・毛利秀就・細川忠興・竹中重利
                木下延俊・稲葉典通・毛利高政・黒田長政・寺澤廣高・鍋島勝茂
                田中忠政、そして熊本の加藤清正です。
名古屋城の中でも最も高度な技術を要した天守台石垣加藤清正が築いたものです。

第二次世界大戦前は、旧国宝24棟をはじめ、多数の建造物が城内に現存していたが、1945年
  (昭和20年)5月14日8時20分頃、アメリカ陸軍のB-29が投下した焼夷弾により大小天守を含む
  ほとんどを焼失してしまいました。
1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて天守の再建が開始されます。
  このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、天守台石垣内にケーソン基礎を
  新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元としました。



では、天守閣へ登城してみましょう
天守閣(5層5階地下1階付)は、南側の小天守(2層2階地下1階付)とそれぞれの地階を橋台で結ぶ
連結式天守閣の形式となっています。
出入り口は厳重を極め、天守閣へは小天守を通らなくては入ることができません。天守閣、小天守
とも入口は上部の石落しと総鉄張の扉を備えた門となっています。また、槍の穂先を並べた剣塀や
隠狭間など、随所に敵の侵入を防ぐ備えがほどこされています。
延床面積が江戸城や大坂城をも上回る史上最大の天守閣で、桃山時代の天守閣と異なる層塔型
と呼ばれる新しい構造になっています。

天守閣と金の鯱
天守閣のいただきには、金板でおおった一対の鯱が載っています。鯱には水を呼ぶという伝説があり、
火除けのため天守閣上に載せるようになったと言われています。
この金鯱(きんのしゃちほこ)は、北側が♂雄・南側が♀雌で、寸法はほぼ同じですが、使用している
金の鱗の枚数が、雄が194枚・雌が236枚と大きく異なります。何故に雄の方が少ないねダッシュ(走り出す様)

天守内部は往時の城下町が再現されておりました。

名古屋城には加藤清正に関する物が多い。
「清正石」や「清正の石曳きの銅像」、また 城に隣接する名城公園には、大きく 立派な
加藤清正公の銅像があります。
これは、名古屋城の築城に際して、江戸幕府の外様大名として普請の命を受けた事や
生誕の地が、名古屋の中村区であった為でしょうか


昼食は名古屋能楽堂併設のレストラン「城」で戴きました。




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