澤熊講師と行く城と古戦場めぐり
2008年10月28日

〔 岡崎城〜桶狭間古戦場〜絞りの里有松 〕


岡崎城
岡崎城の起源は15世紀前半まで遡ります。明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって築城
されたのがそのはじまりです。その後、享禄3年(1530)に松平清康(家康の祖父)が現在
の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。

天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生しました。家康は、6歳で
織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしましたが、永禄
3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立しました。
ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めました。
天守閣は、2階から4階までが江戸時代の岡崎を紹介する歴史資料館になっています。
  2階は「藩政と支配」3階は「城下町の文化と産業」4階は「城と城主」など、各階に
テーマ を定めて当時の貴重な資料を展示しています。また、5階は展望室となっており、
三河平野を一望することができます。




岡崎の『義経と浄瑠璃姫伝説』
矢作の長者・兼高夫妻には、長いあいだ子どもができず、それだけが唯一の悩みでした。
夫妻は、霊験あらたかであると評判の鳳来寺薬師如来に祈り、ほどなく珠のような姫を授
かりました。
時は流れ、都では平家が隆盛の中、鞍馬山で育った牛若丸は藤原氏を頼り奥州へくだっ
ていきました。途中、元服して「源九郎義経」を名のり、源氏の再興を誓います。身分を偽り
一従者として旅をする義経とその一行は、やがて矢作の里へと到着しました。そこで出会っ
たのは、美しく成長した浄瑠璃姫でした。
2人は結ばれ、再会を約束して義経は奥州へと旅立ちます。姫は義経の帰りを待ち続けまし
たが、再会はかないませんでした。姫は悲しみのあまり菅生川へと身を投げてしまうのです。

元来、芸能が盛んであったといわれる三河から発信された浄瑠璃姫の物語は、独特の節回し
をつけて語られ、浄瑠璃(節)として独自の発展をとげ、操(人形)と結びつくことで人形浄瑠璃
いうジャンルも生み出しました。




八丁味噌
家康生誕の岡崎城より西へ八丁はなれた八町村、ここにて・「八丁味噌カクキュー合資会社」
の始祖・久右ヱ門勝久が味噌の仕込みを始めたのが、八丁味噌の起こりと伝えられています。
この地方は、良質の大豆(矢作大豆と呼ばれる)を産出したうえ、花こう岩質の地盤からは良質
の天然水が湧き出しました。そして、矢作川の水運により、吉良地方の塩も入手し易く、味噌づく
りにとって三拍子揃った立地条件だったわけです。また、温度、湿度などの醸造に適した気候風
土と、仕込み蔵が四季の推移に対して見事に調和していたことも八丁味噌の誕生の大きな要因
になったともいえます。
八丁味噌の創業は江戸時代初期ですが、それ以前すでに優れた豆味噌を造る技術があり、
それによってできた味噌は風味の良さと長期保存ができ携行に便利なため、三河武士の兵糧と
しても愛されました。そして、徳川家康の江戸開府にともない、関東地方の人々に親しまれると共
に、大名の参勤交代により広く全国にその名を知られるところとなりました。

そんな訳で、お昼の食事は名物『味噌煮込みうどん』をいただきました。




桶狭間・古戦場跡
1560(永禄3)年5月19日、小勢の織田信長が今川義元の大軍を破った古戦場で国の史跡。
東海道では池鯉鮒(知立)宿と有松宿の間に位置するが、両軍とも東海道を通ってはいない。

今は、当時の面影は全然無い住宅地の一画の小さな公園が、古戦場跡とされています。












鳴海と有松
鳴海と有松は隣町で,どちらも絞りで有名ですが,
もとは有松で作った品物を鳴海で販売していたようです


鳴海は戦国時代、織田家と今川家の勢力の境界でした。そのためここにはかつて鳴海城がありました。
なお鳴海城は戦国時代に廃城になっています。
また鳴海という名が示しているように、このあたりはかつては海に近かったと言われています。やがて
土砂の堆積などで海は遙か遠くなり、
♪、遠くなり 近くなるみ(鳴海)の浜千鳥 鳴く音に 汐のみちひをぞ 知る
とも詠まれたかつての風情は今では見ることができませんが・・・



東海道の古い町並みの風情が残る有松を歩きました。


有松・鳴海・絞り
有松の絞会館では、絞りの実演と、絞りの染めした品の、展示がなされてます。


絞りの町らしく、マンホールの柄も「絞り柄」でした