澤熊講師と行く・・・2011年2月8日

丹波の正倉院
達身寺
達身寺の前身は、よく解っていないが、寺伝によると、織田信長の丹波平定の命を受けて明智光秀が、
丹波攻めをし、篠山城や保月城などが攻められた。達身寺は当時、僧兵を抱え山岳仏教の教権を張る
ような大寺院であったと言い伝えられている。その僧兵が保月城に加勢をしたと言うことで保月城を落と
すまでに寺が焼かれたと言われている。寺を焼かれる前に、仏像を守ろうと僧侶達が谷へ運び下ろした。
仏像だけがそのまま長い年月置き去りになってしまったと伝えられている。元禄八年(1695)、この村に
疫病がはやり、多くの人々が亡くなった為に、占い師に占ってもらった結果、『三宝を犯した仏罰である。』
と言われ、村人達は山に登り放置された仏像を集めて、破損していた達身堂をこの地に下ろし、修復し、
仏像を安置し奉った。

達身寺の仏像は木彫仏であって、大半が一木造りである。寄木造りも多く作られたはずだが、長い間放
置された為、寄木では仏像の姿で今の世に残ることが出来ず、破片化してしまった。又、一寺に一躯奉れ
ばよいと言われている兜跋毘沙門天が十六躯もあると言うこと、本尊仏になる仏像が多いこと、未完成
の仏像があること、仏像のお腹がふくらんでいること(これは達身寺様式と呼ばれている)等が挙げられる。

達身寺は工房であったのではないか、そこには丹波仏師がいて造仏していたのではないかという説も
ある。すなわち、達身寺は多くの仏師達の養成所だったのではないか、と考えられている。
丹波仏師がいたことを認めれば、未完成の仏像が多い、同名の仏像が多いなどの謎が解ける。また、東
大寺の古文書の中に「丹波講師快慶」と記されており、彼は「私は丹波仏師である。もしくは丹波の地とつ
ながりの深い仏師である。」と言っている。とすれば鎌倉時代の仏師快慶は達身寺から出た仏師もしくは
達身寺とつながりの深い仏師であるといえる。達身寺には古文書が乏しいため、明確なことはわからない。