2009年1月21日
【安芸高田・郡山城跡広島城と大和ミュージアム】



行程
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0大阪南港(22:30発).(オレンジフェリー)東予港しまなみ海道呉(大和ミュージアム&くじら館)0
0広島で昼食広島城安芸高田(歴史資料館&郡山城跡・散策)山陽道しまなみ海道0
0今治・湯ノ浦にて入浴と夕食東予港(22:30発)(オレンジフェリー)翌朝・大阪南港(6:10着)0
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最近のフェリーは豪華になりました。夜22:30で、翌朝6:10着の短時間では、もったいないくらいの豪華客船・風・・・です。





本日の行程順は、「呉」→「広島」→「安芸高田」ですが、今回のHPは、
時代順に「安芸高田」→「広島」→「呉」の順で進めさせていただきます。




安芸高田の郡山城や、広島の広島城を訪れる前に、毛利氏のお勉強が必要かもしれません。
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0(毛利氏)

0鎌倉幕府政所別当・大江広元の四男季光が、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を領し毛利姓
0を称したのに始まります。
0季光は、1247年(宝治1)三浦泰村の乱にくみして3人の子息とともに戦死します。しかし越後国
0佐橋荘に居住し、同荘と安芸国吉田荘(広島県安芸高田市吉田町)を所領とした四男経光は、
0この乱に関与せず、その子孫は越後と安芸に分かれて存続しました。
0安芸毛利氏は、経光から吉田荘1000貫を譲与された四男の時親が、南北朝期初頭に吉田荘
0の郡山に移住して居城を構えたのに始まりです。応仁の乱(1467〜77)の間に豊元は、大内氏
0から安芸国賀茂郡(広島県賀茂郡)内で千貫などを宛行われ所領を拡大、以後大内氏に従属
0していましたが、戦国期の元就の代に大内氏から自立し、1557年(弘治3)に大内氏を、(永禄9)
0には尼子氏を滅ぼして中国地方10か国を領有する戦国大名となります。
0孫の輝元は豊臣秀吉に従属し、91年(天正19)秀吉から8ケ国、112万石を安堵され、広島城に
0本拠を移したが、関ヶ原の戦い(1600)に敗れ、徳川家康に周防、長門の2か国に領国を削減さ
0れて、萩(山口県萩市)に居城します。

0江戸時代末期、毛利敬親の時、長州征伐等により幕府から圧迫を受けますが、吉田松陰や
0高杉晋作、桂小五郎等の有能な人材を輩出し、明治維新を成就させることになります。



 吉田・郡山城跡(安芸高田)
 南北朝期から戦国期にかけての山城です。
 広島県安芸高田市吉田町郡山にあり、吉田郡山城と呼ばれています。
  (奈良県大和郡山の郡山城と区別する意味で)
 
 安芸国吉田荘の地頭から国人領主化し、さらに戦国大名となった毛利氏の本城です。
 標高約400メートルの山頂に本丸を設け、南に二の丸・三の丸、西に姫丸などの曲輪があり、
 毛利元就はこの城を本拠として各地に転戦していきました。
 1591年(天正19)元就の孫・輝元のとき、広島に城を移して、ここは廃城となりました。

降水確率80%の天気予報は、見事に当たりましたたらーっ(汗)雨が降りだしましたexclamation ×2
「本丸跡」・「二の丸跡」・・・看板はありますが城跡の痕跡は皆無、何もかも広島へ運んだのでしょうか








毛利元就の墓所の横にある「百万一心」の碑は、
難航する郡山築城の際、巡礼の少女を人柱にしようとした時、
元就が「何百の人柱をたてても協同なくして城は守れない」と、少女を助ける代わりに
「百万一心」と書いた石碑を本丸の石垣に埋めた、という言い伝えがあります。
後日談に、
毛利氏は元就の孫の輝元の時代に広島へ移り、さらに萩に移封され、郡山城は壊されます。
江戸末期になって長州藩士が郡山城跡を訪れた際、元就が埋めさせたとされる「百万一心」
の碑を見つけ、文字を写しとって豊栄神社(山口市)に奉納した、と伝えられています。






三矢の訓跡
元就の有名な逸話「三矢の訓」の碑は、郡山山麓にあった御里屋敷、現在の少年自然の
家敷地内にあります。
3本纏めると容易に折れないので、3人共々結束すること」という有名な三本の矢の逸話は、
三子教訓状が元になって作られたと言われています。
三子教訓状とは、毛利元就が1557年に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書で、1557年
61歳になった元就はすべての権限を隆元に委譲して引退することを告げます。父親の突然の引退宣言に驚き、
ろうばいした隆元は猛反対・・・
同年十一月、引退を思いとどまった元就は、三人の息子を諭す「三子教訓状」を作成します。隆元の考えを入れ
元春と隆景の両翼からの支援を明記しています。
元春、隆景が継承した吉川、小早川両氏が宗家を支える「毛利両川」体制は、こうして形成され、毛利氏の中国制
覇は、この三家連合軍団によって強力に推し進められていく事になるのです。
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城山の中腹からの安芸高田の町並み








広島城



それまでの毛利氏の居城・吉田郡山城は尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城で
あり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏に
は適した位置であったでしょう。
しかし、天正末年になり天下が安定する頃になると、中国地方9ヶ国120万石の太守であまし
た毛利氏に吉田郡山城は政務所としても手狭なものとなり始めます。また吉田郡山城は
山間部にあり、商業の中心地としては不適切であったことから、海上交易路である瀬戸内の
水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへの拠点を移動すべきという意
思もあったことでしょう。
広島築城は川の中州の埋め立てと、堀の浚渫が初段の大工事となりました。
城の構造は大坂城を参考とし近世の城郭として築城され縄張りは聚楽第に範を取ってい
ると言われています。軟弱な三角州地盤に築城したため、石垣の重量を分散させる工夫がな
されているのも特徴です。
この築城は同時期に進行しつつあった豊臣秀吉の朝鮮征伐の後方基地としての期待もあり、
関白秀吉は築城技術のサポートとして側近の黒田如水を派遣し、自らも建設中に広島城に
滞在したという話も残っています。
その後、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって・・・
家康に疎まれた輝元は隠居、秀就への周防・長門2ヶ国の安堵となり、毛利本家の
改易は避けられましたが、所領は周防・長門2ヶ国の37万石に大減封されたのです。
・・・広島を去った毛利輝元に代わって城主となった福島正則が入城し、福島正則は改易の
憂き目を見ることになり、以降は浅野氏の居城となりました。

明治期に小天守を失い、大天守のみが保存されることとなり、戦前、他の現存する建造物とと
もに旧制の国宝に指定されていましたが、大天守は原子爆弾の投下直後の熱線に耐え、その
直後の爆風によって倒壊し大量の建材が天守台に散乱したと言います。
その後に復元された大天守は、歴史博物館として、現在・利用されています。

広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと言われ、ここから
鯉城の別名がつきました。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも言われています。






大和ミュージアム(呉市)
呉市は、明治二十二年年に呉鎮守府明治36年には呉海軍工廠が設置され戦前においては
戦艦「大和」を建造した東洋一の軍港、日本一の海軍工廠のまちとして栄え、また、戦後におい
ては、戦前から培われてきた技術が新しい技術と結びつき、世界最大のタンカーを数多く建造
するなど、我が国が戦後約10年ほどで世界一の造船国へ発展する一翼を担い、有数の臨海工
業都市として発展し、地域の産業発展のみならず、日本の近代化に大きく貢献してきました。
呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム)は、明治以降の日本の近代化の歴史そのもの
である「呉の歴史」と、その近代化の礎となった造船、製鋼を始めとした各種の「科学技術」を紹
介しています。

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戦艦大和(松本零士の宇宙戦艦ヤマトではありませんよ)
大和は、大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦で、大和型戦艦の一番艦として戦艦大和
と呼ばれることも多く、大艦巨砲主義の象徴とされてきました。

海軍が 長門型戦艦に続き建造した戦艦大和およびその姉妹艦武蔵は、全長263m、全幅38.9m、満載
排水量72,809t、そして艦載砲としては史上最大の46cm(18.1インチ)砲を9門搭載した超弩級戦艦です。

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年12月に就役し、やがて連合艦隊旗艦となりました。
この任は司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役(1942年8月)するまで継続されます。
1945年4月7日、菊水作戦において米軍機動部隊の延べ380機以上の航空機による猛攻撃を受
け、坊ノ岬沖で撃沈されてしまいました。

当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm
主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れ
の戦艦でありました。
建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法は大成功を納め、この大和
建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の生産方式の基となり、造船復興
の、重要な意味をなすことになります。

 





てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)
潜水艦あきしおを陸上展示する施設で、実物の潜水艦の艦内見学も出来ます。






昼食は、広島の繁華街で名物「広島焼き」を戴きました。(お好み村)
http://www.okonomimura.jp/

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広島焼き考
中国山地は昔から質の良い砂鉄の産地でありました。
砂鉄から取り出された鉄は船で広島(安芸の国)へと運ばれ、鉄鋼の町として栄えたのでしょう。
広島には鍛冶屋町、鉄砲屋町、細工町、研屋町・等々、鉄にちなんだ地名がありました(旧地名)
この広島の知識力と技術力が、戦艦「大和」、また現在のマツダ自動車へと発展したのでしょうか。
そして「鉄板」・・・この地には「広島焼き」を旨く焼く事の出来る上質の「鉄板」が育った・・・
『この結論には、チョッと無理がある』なんて仰っているのは、どなたですか!!



京都から水無瀬〜箕面〜伊丹〜西宮・・・の延長線に広島があるのですネ【西国街道】





旅の終わりは、今治湯ノ浦ハイツでの入浴と夕食でした。
http://www.yunoura-h.or.jp/


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