2009年1月6日
【歴史探訪ハイク 小牧・長久手の戦い】
犬山城〜小牧城〜長久手戦場跡




小牧・長久手の戦い
は、天正12年(1584年)に、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の
間で行われた戦役です。

これより1年前の、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い時に、秀吉は織田信長の次男・信雄を
擁立して、信長の3男・信孝を擁する柴田勝家に勝利しています。

簡単に言うと、羽柴秀吉は犬山城に布陣し、徳川家康が小牧城に布陣し、『小牧』で戦いの後
『長久手』で戦ったと言う事です。

そこで疑問が
『犬山城』と『小牧城』のあいだに『長久手』があるのなら、話が早いのです。しかし
犬山城から見て戦場の長久手は小牧城
の背後なんでそんな場所が戦場になった?
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天正12年、秀吉は3月21日大坂城を出発、3月27日に犬山城、4月5日に楽田に着陣します。
家康が小牧城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った
為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全くの膠着状態に陥りました。

この状況を打開するため秀吉は家康側の陣地帯を迂回し、三河方面にでる迂回作戦を策定して、
家康の本拠・三河に向けて出撃します。

家康は、近隣の農民や伊賀衆からの情報でその動きを察知し、4月9日午前10時ごろ、ついに両
軍が激突。両軍入り乱れての死闘は2時間余り続きましたが、戦況は一進一退の攻防が続き、
合戦は家康の大勝利に終わり秀吉軍に2500余り、家康軍には550余りの死者が出たとされます。
これを『長久手の戦い』、またはとくに仏ケ根の戦いとも云われています。





犬山城
さて、朝8:00に大阪を出た我々のバスが、本日一番に訪れたのは、秀吉が布陣した国宝・犬山城です。
犬山城は、愛知県犬山市にある城で、 今や全国に12箇所しか現存していない、江戸時代前後に建造
された天守を有する城郭の一つです。〔日本の国宝の城は四ッ、犬山城の他は、姫路城・彦根城・松本城〕
  • 1469年(文明元年) 織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれています。
  • 1537年(天文6年) 織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭を造営して移りました。
  • 1544年(天文13年) 信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となります。
  • 1564年(永禄7年) 織田信長との対立の末に信長によって攻め取られてしまいます。
  • 以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めました。
  • 本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となります。
  • 1584年(天正12年) かつての城主でもあった池田恒興によって奇襲を受けて奪われてしまいます。
  • 天正12年のこの事件は、まもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなるのです。

別名を白帝城という。この名は、犬山城が木曽川沿いにあり、三国志の劉備が臨終を迎えたことで有名
な白帝城も長江沿いにあることから、それにちなみ荻生徂徠が命名したと伝えられています。

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犬山城天守からの展望です。
正面の小高い丘の頂上に、ポツンと見えているのが、お昼から行く小牧城らしいのですが・・・









小牧城跡(小牧市歴史館)
小牧山の天守閣は、1967年・名古屋市に住んでいた実業家、故平松茂さんが私財を投じて建設して、
小牧市に寄贈したものです。安土桃山時代(
16世紀後半)に建てられた国宝「飛雲閣」(京都市)
をモデルに設計してあり小牧山に城があった16世紀当時の面影を現代に伝えています(現在は美術館)
史跡小牧山は、濃尾平野の東部に独立して存在する美しい小山ですが、織田信長が永禄6年(1563)に
築城した小牧山城、その城跡を天正12年(1584)に改修した小牧・長久手の合戦の陣城の古城跡です。
江戸時代には、尾張藩の手厚い保護を受け、良好な状態で城の遺構が残されています。
小牧城の天守からの展望です。午前中に行った「犬山城」の天守閣が望めるらしいのですが
私には見えません・・・左の小山らしいのですが・・・皆さん本当に見えたのかナ〜



長久手古戦場
小牧から東名高速で25kほど走って、長久手の古戦場跡へ・・・
住宅が密集していて当時の面影は何もありませんが、郷土資料室のある古戦場公園にバスがとまりました。


その後、
戦況は信雄・家康側に有利に移行したが、秀吉側の蒲生氏郷ら別働隊が信雄領である伊賀・伊
勢に侵攻し、その殆どを占領し、さらに伊勢湾に水軍を展開させ信雄に精神的に圧力を加えます。

秀吉は合戦から半年以上経った11月11日(11月15日説あり)に、秀吉側への伊賀と伊勢半国の
割譲を条件に 信雄に 講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦争の大
義名分を失ってしまった家康陣営は11月21日についに兵を引てしまいます。

秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、家康との講和を取り付けを試み、家康は返礼として
次男・於義丸「結城秀康」を秀吉の養子にするために大坂に送ります。
0こうして小牧・長久手の戦いは、幕を閉じることになります。



この戦役全体は、江戸時代には江戸幕府・徳川氏の公式記録(東照宮縁起、尾張藩『小牧陣始末記』など)では「小牧陣と呼ばれていました。別に「岩崎口の戦い」と記録した文献もあります。

成島司直の改正三河後風土記では、岩崎城軍付秀次敗走の事、長湫合戦付池田森討死の事、秀吉出軍付忠勝猛勇の事、などと個別に題名が付いています。

その長久手における戦いは「長久手合戦」と呼ばれて両者は区別されましたが、「小牧陣長久手合戦屏風」のように混ぜて使われることもありました。当時の戦闘を記した文献では、「小牧軍記」・「小牧陣始末記」・「長久手合戦覚書」・「丹羽長久手軍記」・「別本天正記」・「天正征伐記」等「小牧」と「長久手」を同一にした名称を使った書物はきわめて少なく、明治維新後には参謀本部が、戦争・戦役を「役」、戦闘を「」などとする統一的な表記を使い始め、戦役の方は「小牧役」、戦闘の方は「長久手戦」などとする表記が多く広まりました。「小牧・長久手の役」という表記もあります。

これは、戦場となった地域が当時としてはかなり広い範囲に散らばっていたこと、小牧が陣地構築による対峙であったのに対し、長久手とその近辺では機動戦が行われ、戦闘の性格が大きく異なるものであったことも、あったものと思われます。

現在ではこの戦役を「小牧・長久手の戦い」と呼ぶことが定着しています。




歩いて万年



お城めぐり




愛知県の長久手と、ベルギーのワーテルローは姉妹都市として、お互いの
古戦場を 悲劇のシンボルとして、後世に伝えるべく、協力しあっています。

長久手合戦図屏風

ワーテルローの戦い(ガラスアート)

0ワーテルローの戦い
英:・仏:は、1815年6月18日にイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝
ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いである。ナポレオン最後の戦いとして知られる。