シリーズ・万葉集を歩く・第13回 

万葉のふるさと越中高岡に大伴家持を訪ねて


 〔行程〕
 大阪=名神・北陸道=高岡IC=昼食〔柿の匠〕=瑞龍寺=ホテルニューオータニ高岡〔チェックインの後〕
 高岡の街並み散策高岡大仏高岡城跡金屋町山町ホテルニューオータニ高岡・宿泊
 2日目8:00発=多気神社大伴神社=万葉歴史館=勝興寺=雨晴海岸=如意の渡し=
 氷見フィッシャーマンズワーフにて昼食&買物の後・・・帰途
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 越中高岡を知るには、まず大伴家持を…そして前田利長のお勉強から始めねばなりません。

 大伴家持
 万葉集の編纂に大きくかかわったと云われる大伴家持は
父の後を受けて、 大伴氏を率いますが親しかった左大臣・橘諸兄の
引退後は、藤原氏に押され続けます。
 家持が越中国守として現在の高岡市伏木にあつた国府に就いたのは
天平18年〔746〕7月・29歳の時でありました。
 当時の越中は、現富山県に加え、能登半島を含んでいました。
射水川(小矢部川)が裾を流れる高台にある勝興寺が国府跡で、
その坂下の「東館」の地名が残る地が国守館跡とされています。
 家持の歌才はこの越中で大きく開花し、479首の内、
半分近くはこの越中赴任で作られたものです。
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    高岡市万葉歴史館の展示パネルに、万葉集をよく解説されたものがありましたので
    初歩から勉強しようと拝借してきました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ココをクリック
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 これ以上読むのが面倒なお方は、写真ページへ・・・→・Skip
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 前田利長
 加賀藩祖である前田利家の長男として生まれ、母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田
 信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589)頃、利長と改名します。
 若年より主として豊臣秀吉旗下の将校として転戦したが、秀吉没後から徳川幕府成立に至る難局
 を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築きました。
 慶長14年(1609)、富山城が焼失したタメに、射水郡関野(高岡市)に高山右近の縄張りで築城、
 9月13日に関野を「高岡」と改め、未完成の高岡城に入城します。
 以後前田利長は「高岡の祖」と慕われ、ゆるキャラ「利長くん」の人気も上々のようです。




越中高岡を唄った歌を見つけました。
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【古城恋歌】作詞・曲/編曲:西川武志で渡辺ゆみ子が唄ってます。(馴染みのない歌手ですが)
http://www3.ocn.ne.jp/~coco/kojyoukoiuta.html
【高岡・コロッケ音頭】という歌も面白いですよ、下のURLから探して下さい。(視聴も出来ます)
http://www3.ocn.ne.jp/~coco/original.html





大伴家持の事を、もっと詳しく
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家持の祖父は大伴安麻呂・父は大伴旅人・弟に大伴書持がいて、叔母には大伴坂上郎女がいます。
長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、家持の歌が『万葉集』全体の1割を超えていて、
このことから家持が万葉集の編纂に拘わったと考えられ、万葉集・卷17〜20は私家集の観もある程です


越中赴任

746年(天平18年)
6月21日、大伴宿禰家持は越中守に任じられます。29歳の若き国守でありました。
7月末までには赴任したでありましょう。以来、家持は751年(天平勝宝3年)7月少納言に遷任され、8月に帰
京するまで、満5年間を越中で過ごす事になります。
再任中の家持は、国守として職務に励み、そん責務を全うし、また・都とは異なる越中の風土に触発され、
歌人としても大きく成長しました。越中時代に家持は、その生涯で最も多くの歌を詠んでいます。

家持が越中守として在任した5年間は、聖武天皇が大仏(.廬舎那大仏)の完成にかけられた月日であり、
家持の越中赴任も大仏建立と関係が有り、東大寺の墾田開発の役目も担っていたようです。
家持は越中守としての決意をその長歌の中で『大君の任けのまにまに…』と詠い、天皇の代言者としての
使命の自覚と『ますらを』としてま誇りが、歌の中に垣間見られます。

越中三賦
747年(天平19年)春、家持は大病を患います。2月も半ばを過ぎてようやく快方に向かい、病床から大伴
池主
と2月29日から3月5日にかけて漢文の書簡、長短歌、漢詩の贈答をします。
その濃密な漢詩文的世界の流れの中で家持は、国守としての誇りを胸に3月30日、越中国府の象徴である
二上山を讃える『二上山の賦』(巻17-3985〜3987)を詠み、それを元に4月末に越中の山水の名勝を主題
とした『布勢の水海に遊覧する賦』(巻17-3991.3992)と『立山の賦』(巻17-4000〜4002)を詠みました。

二上山の賦』・『布勢の水海に遊覧する賦』・『立山の賦』の三部を総じて『
越中三賦』と呼ばれています。

諸郡巡行
748年(天平20年)
春の国守・家持の諸郡巡行は、『出挙』のためでした。
春の『出挙』とは、春に国庫の稲を農民に貸し付け、秋に利息をつけて返済させる制度の事で、『出挙』の
管理は国守の重要な職務でした。この巡行は、家持にとって初めての管内視察であり、越中の国情や人情
自然に直に接した得難い体験だったでしょう。巡行の途上、越中の自然や風物を目に見るまま、心に映じる
ままに歌っています。その巡行歌群には、越中の風土への親近と、一方に望郷の念がみられ、この巡行で
9首の歌を詠んでいます。

出金詔書
749年(天平21年)
2月、陸奥国小田郡から黄金が産出した朗報が朝廷へ届き、大仏建立に黄金が不足し
苦慮していた聖武天皇は、仏への感謝の詔(第12詔)と、諸王以下天下の公民に恩典を与える詔(第13詔)を
発布し、その中で特に大伴・佐伯両氏の「内兵」として代々の天皇に仕えてきた忠勤を褒め、
家持も「従五位上」に昇叙しました。

4月14日、天平感宝と改元、更に7月2日に聖武天皇が譲位、孝謙女帝が即位し、同日天平勝宝と改元されます。

家持の居る越中にも、「出金詔書」と昇叙の知らせは、おそくとも4月末までには届いたことでしょう。
家持は、大伴・佐伯両氏の名を挙げ、その
『海行かば みづく屍、山行かば 草むす屍、おおきみの へにこそ死なめ かへり見はせじ
【18-4094】の言立てを引用しながら、忠勤を褒め讃えた「詔」に接し、感涙に咽んだのでしょう。
「海行かば水浸く屍山行かば草生す屍…」の一節は、先の大戦中に戦意高揚のために利用され、
もてはやされましたが、もともとは、大伴佐伯両氏の間に伝わっていた、戦闘歌謡でありました。

そして5月12日、家持は「出金詔書」を賀する107句からなる長歌をつくります。その中で家持は、自らも
大伴氏の言立てを歌い込み、「内兵」(親衛隊)としての大伴氏の歴史を誇らかに歌い上げ、家持自身
「ますらを」の清き名を絶やさず奉仕する自負と決意を述べているのです。


越中秀吟
750年(
天平勝宝2年)
3月1日の夕方から3日の朝にかけて詠まれた巻19・巻頭の独詠歌12首は、その
評価が高く・『越中秀吟』と呼ばれ、家持の歌はその『越中秀吟』において飛躍的な進境を見せる事に
なります。

751年(天平勝宝3年)7月17日、家持は少納言に選任されます。少納言は位階は低いが、太政官の4
中枢にあって、天皇に近侍する侍従も兼ねる役職で、家持の喜びはこの上もなく、大きかったことでしょう。

帰京
8月5日
、家持は大帳使を兼ねて帰京につきますが、帰京を明日にひかえ、8月4日の昼に『悲別の歌
(巻19-4248・4249)をつくり、正税帳使として上京中の久米広縄の留守宅に届け、夕べには餞別の宴
『惜別の歌』(19-4250)を詠み、越中と、その官人たちに別れを告げます。【 『惜別の歌』は後記 】

早朝出発した家持はを待って射水郡の大領安努君広島の門前の林中に送別の宴が用意されており、
家持は介内蔵忌寸縄麻呂の盃を捧げる歌に和えて『君が事跡を負ひてし行かむ』と、そのその業績を
讃え、その誇りを我が事として都へと旅立つのでした。

 〔家持の歌は、ページの都合で番号のみとしました、ココからの検索を、お願いします。・・・又は


その後の家持
戻った都では家持が頼りにしていた橘諸兄が力を失って、家持も中央の政治から遠ざけられるようになってゆきま
した。

 759年の正月に、左遷された因幡の国庁で詠んだ歌をもって「万葉集」全20巻は幕を閉じます。
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♪、新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重けよごと
(4516)
【通釈】新たに巡り来た一年の始まりの初春の今日、この降りしきる雪のように、天皇陛下を言祝ぐめでたい詞がつぎつぎと重なり
ますように。

このとき家持42歳。
785年、陸奥の国・多賀で68歳で亡くなるまでの26年間、家持の歌は残っていないのです



大伴家持、越中を離れる時の一首惜別の歌
♪、しなざかる越に五年(いつとせ)住み住みて立ち別れまく惜しき初夜(よひ)かも(19/4250)
【通釈】遠い越の国に五年という年月の間住み続けて、別れ去るのが惜しくてならぬ今宵です。


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カメラのレンズが捕らえた越中高岡です























澤熊講師と行く  2008年12月27〜28日