シリーズ・万葉集を歩く  第12回 2008年9月15日
万葉のふるさと〔山辺の道海石榴市〕

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大和盆地の東の山裾を、南北に縫う日本最古といわれる古代史の道、
本日は、その山辺の道の万葉歌碑を辿って石上神社から大神神社へ、
そして少し足を延ばして・海石榴市の 海石榴市観音まで 歩きました。

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石上神宮
万葉集で「布留の神杉」と詠われている「石上神宮」が、本日のスタート地点です。
♪、いそのかみ 布留の神杉 神さびし 恋をも吾は 更にするかも 柿本人麻呂
♪、石上 布留の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに   丹生王


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石上神宮の「楼門」は棟木の墨書により、文保二年(1318年)創建で、一間一戸の入母屋造桧皮葺、
総円柱、一重は二手先で、蟇股や木鼻に特徴があり、二重は和風の三手先です。なお、祭神「平国之剱」
は神武東征で皇軍が熊野の神によって当てられた毒気を抜くのに武甕雷神から神武天皇に下された
神剱で、初代神武天皇即位の後、功績により物部氏の先祖宇摩志麻治尊(うましまじノみこと)に与えられ、
長く宮中で祀られていたのを、第10代崇神天皇7年の冬、大和朝廷の守護職だった物部伊香色雄に命じて、
石上邑「布留御魂の社」に「布都御魂大神」として奉斎し、また、祭神「布都斯御魂」は素戔鳴尊が出雲の
斐伊川で八岐大蛇を退治した天羽羽斬剱=十握剱、で、第16代仁徳天皇の時、備前国から「石上神宮」
へ移され、他に国宝で、神功皇后が369年(泰和4年)朝鮮征伐で百済から献上された七支刀もあります。





内山永久寺跡「萱の御所跡」
永久寺は、1115年頃(永久年間)第74代鳥羽天皇の勅願によって創建され
50以上の堂塔が並ぶ大寺院で、
真言宗の大寺院でしたが、明治初年の廃仏毀釈で取り払われ、
現在は本堂の在った所に池が残るだけです。

松尾芭蕉が江戸へ下る以前、出生地の伊賀上野に住み、
号を宗房と云っていた頃(23,4歳)、
内山永久寺に参詣して詠んだ歌碑があります。
♪、うち山や とざましらずの 花ざかり  宗房

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ここ内山永久寺は、
南北朝の頃には第96代後醍醐天皇が京都花山から吉野へ落ち延びる際に
一時入寺して「萱の御所」とされ、
江戸時代には971石の朱印地を与えられ、
大和では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていました。



柿の季節には、チト早すぎ・・・




夜都技神社
俗に「春日神社」とも呼ばれ、
奈良の春日大社と同じ四神を祀っています。
天理市の乙木には元々、「夜都伎神社」 と 「春日神社」の2社が在りましたが、
「夜都伎神社」の社地を竹之内の三間塚池と交換して、
春日神社1社にし、社名のみを変えて残し、
「夜都伎(やとぎ)神社」としました。




♪、あしびき野 山川の瀬乃 響るなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る

 (巻7−1088 柿本人麻呂) 
(あしびきは山の枕詞で、弓月ガ嶽は巻向山の山頂の名)




竹ノ内環濠集落
古墳群
中世の大和の集落では、外敵の侵入を防ぐために、
集落の周りに濠を巡らし、外への出入り口には
橋を架けて、自衛していたらしいです。
この辺りは古墳も沢山点在しております。
(写真は西山塚古墳と、波多子塚古墳)




正面の山は、巻向山
人麻呂は、この辺りに通い妻がいたともいわれる。人麻呂自身が住んでいたのかも知れない。
大和にいた人麻呂のここが生活の場であったことは確かでだろう。
この巻向の山なみを、朝な夕なに見つめていたのでしょうか・・・

♪、みもろの その山なみに 子らが手を 巻向山は 継ぎしよろしも
巻7−1093

♪、足引きの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降りけり
巻10−2313

♪、ぬはたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き
巻7−1101
♪、巻向の 山邊響みて 行く水の みなわの如し 世の人吾は
巻7−1269






山辺の道の万葉歌碑の中で、一番立派な歌碑とみました。筆は、犬養孝氏のものです。

♪、衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし
巻2−212 柿本人麻呂
   人麻呂が妻を亡くした折の慟哭の長歌に続く短歌・二首の内の一首です。
(衾道=葬送の道)

他の一首とは
♪、去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせども 相見し妹は いや年さかる



長岳寺
山の辺の道に残る長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により
弘法大師が大和神社の神宮寺として創建された古刹であり、
盛時には塔中四十八ヶ坊、衆徒三百余名を数えました。
以来幾多の栄枯盛衰を重ねながらも1300余年間連綿と法燈を守り続け今日に至っています。

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お昼の食事は、長岳寺の宿坊で、三輪ソーメンと柿の葉寿司をいただきました。



黒塚古墳
(崇神天皇陵の前、柳本バス停を西へ・・・約300m)
この古墳は、国内最多の三角縁神獣鏡33枚が出土したことから、
注目を浴びる事になりました。
魏志倭人伝」には、魏が卑弥呼の使者に銅鏡百枚を下賜したと記されており、
邪馬台国・大和説の有力な証拠と騒がれました。
三角縁神獣鏡についての「魏鏡説」と「国産説」は、そのどちらに与するかによって、
そ の後の古代史が大きく異なってきます。
前者によれば、魏王朝が邪馬台国の朝貢に対して与えた鏡である可能性が濃厚で、
邪馬台国はこの鏡が多く出土する近畿圏にあったことになりますし、
後者だと卑弥呼の三角縁神獣鏡ではないという事になり、
邪馬台国を近畿とは特定できない事になります。




♪、玉かぎる 夕さり来れば 猟人(さつひと)の 弓月が岳に 霞たなびく
柿本人麻呂
「玉かぎる」は「夕」にかかる枕詞。
「猟人の」は「弓月が嶽」(奈良・三輪山に連なる巻向山の最高峰)の枕詞なので、
内容としては「夕方、弓月が嶽に霞がたなびいている」と、なるのか。





ここからは、大和三山の内・畝傍と耳成が重なって見えます。
 カーソルを写真の上に重ねて下さい。





三輪山が見えてきました。
三輪山は、おそらく縄文時代、あるいは弥生時代から、
自然物崇拝をする原始信仰の対象であったと考えられます。
古墳時代にはいると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られました。
そのことから、
この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、
すなわちヤマト政権の初期の三輪政権が存在したと考えられています。

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朝鮮半島では、新羅の要請をうけた唐が大軍を出して、日本の友好国百済を攻撃し、
緊迫した情勢でありました。
中大兄皇子は3万4千の大軍を出すが、惨敗します。
日本軍は、朝鮮半島から撤退し、対馬・壱岐・筑紫に防人を配置し、烽台を設け、
防備を固める。大宰府の水城、大和の高安城などの城を築きますが、
中大兄皇子の不安はおさまらず、
飛鳥を捨てて近江大津へ都を遷すことになります。


♪、うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の間に いかくるまで
  道のくま いさかるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 
  みさけむ山を 心なく 雲の かくさふべしや

 (巻1・17 額田王)

♪、三輪山を しかもかくすか 雲だにも 心あらなむ かくさふべしや
 
(巻1・18 額田王)

飛鳥から近江に向かう一行が、三輪山と,過ごした日々に、別れを告げる惜別の情で、
こみ上げてくるものがあったに違いありません。
いつまでも見つづけることを、せめてもの願望としつつ、
一行は大和を去ったのでありましょうか。





♪、ぬはたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き
 
(巻7−1101 柿本人麻呂)
   人麻呂が妻の家で一夜を明かした時の歌でありましょうか
   『夜になってくると、巻向の川の音がたかいよ、山の嵐が烈しからであろうかナア〜』



♪、足引きの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降りけり
 (巻10−2313 柿本人麻呂)
   『山が高いからであろうか。巻向の断崖の小松に雪が降ってくる。』 
  あしびきの・・・山にかかる枕詞







山辺の道も終盤に・・・
高市皇子の歌碑は写真家・入江泰吉氏の筆でした。
♪、神山の 山邊真蘇木綿 みじか木綿 かくのみ故に 長しと思ひき
 (巻2−157 高市皇子)
   『三輪山の山邊にかけて麻の木綿、その短い木綿のやうに、これだけの短いちぎりであったに、末長くと思った事であった。』
高市皇子が、十市皇女の急逝に三首の歌を作った内の一つです。
他の二首は、
♪、や万万弔の 立ちしげ美当る やましみつ 久美にゆか免と 道の志らなく
 
巻2−158
   十市皇女の葬ってある墓地のあたりには、黄色い山吹に取り囲まれた山の清水がある。
それを汲むために、皇女の御霊は通っておられるだろう。
行って逢いたいなと思うが、その道を知らないのでどうすることもできない。

♪、三諸の 神の神杉 夢にだに 見むとすれども 寝ねる夜ぞ多き
   三輪山の神聖な神杉……第三・四句解読不能……眠れない夜ばかりが多いことだ 巻2−156




大和の青垣
♪、大和は 國のまほろば たたなずく 青かき 山ごもれる 大和し 美し
と、この辺りは古事記に詠われています。
奈良盆地は、遠くに見えも生駒山地や矢田丘陵、すぐ手前の景行天皇陵、
さらに手前の巻向、三輪の山々など幾重にも緑の垣根に囲まれたようになっています。
こうした環境を守る為に、この辺りは大和青垣国定公園に指定されています。



桧原神社
この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、
天照大御神を豊鍬入姫命に託されてお遷しになり、
「磯城神籬」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑」です。
大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、
元伊勢」と今に、伝えられています。

♪、鳴るの のみ聞きし の の山を 今日見つるかも
 巻7−1092
♪、いにしへに ありけむ人も 我がごとか 三輪の檜原に かざし折りけむ
巻7−1118
♪、巻向の もいまだ 雲ねば 小松が末ゆ 流る
巻10−2314


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桧原神社から三輪へ向かうとスグ、人麻呂の万葉碑が・・・
♪、古の 人の植ゑけむ 杉か枝に 霞たなひく 春は来ぬらし
 (巻10−1814 柿本人麻呂)




山辺の道には、同じ万葉の歌の碑が随所にあることも・・・
この、額田王の♪、うま酒 三輪の山 あをによし・・・
、二度目です。




狭井神社
大神神社の摂社「狭井坐大神荒魂神社」が鎮座しています。
境内に、美智子皇后陛下が昭和50年の「歌会始」に詠まれた歌碑がありました。
♪、三輪の里 狭井のわたりに 今日もかも 花鎮めすと 祭りてあらむ




大神神社(おおみわじんじゃ) 大和国一之宮三輪明神大神神社
三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、
今日でも本殿を有さず、拝殿から三輪山そのものを仰ぎ見て拝む
古神道(原始神道)の形態を残しています。




金屋の石仏

金屋の集落のはずれに祀られている2体の石仏で、
右が釈迦如来像、左に弥勒菩薩像と云われています。
現在は鉄筋の収蔵庫に納められていますが、格子の隙間から拝むことが出来ます。
平安時代後期から鎌倉時代の間に造られたらしく、
いずれも高さ約2m、幅約80cm、厚さ約20cmの石棺の蓋と見られる泥板岩に柔らかな線で浮き彫りされています。





海石榴市
つばいち(海石榴市観音)
金屋から、このあたりは古代の市場海石榴市のあったところで、三輪・石上を経て奈良への山の辺の道、
初瀬への初瀬街道・飛鳥地方への磐余の道・大阪河内和泉から竹之内街道などの道からここに集まり、
大阪難波からの舟の便もあり賑わいました。
春秋特定の日に大勢の男女が一同に会し、歌を掛け合って求愛する風習があったとか・・・

♪、紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
 (巻12−3101 作者不詳)
   『つば市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。』
♪、たらちねの 母が呼ぶ名を 申さねど 道行き人を 誰と知りてか
 (巻12−3102 作者不詳)
   『いま会ったばかりの道行き人、どこの誰ともわからない人の名前がいえるか』