澤熊講師と行く   2008年6月7日
シリーズ・万葉集を歩く  第9回

遠の朝廷〔筑紫歌壇〕と防人〔能古島〕を訪ねて

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0大阪南港〔20:00〕名門大洋フェリー船中泊〜九州新門司港=〔バス〕太宰府・水城跡
万葉歌碑めぐり筑前国分寺跡 太宰府政庁跡 観世音寺太宰府天満宮
(昼食)照星館 天開稲荷社 = 〔バス〕 = 福岡・姪浜渡戦場 〜〔船〕〜能古島
能古島万葉歌碑めぐり花のアイランドパーク=〔バス〕=九州新門司港〜大阪南港

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太宰府・水城跡

大宰府が置かれた北部九州の地は、日本と大陸の接点に位置し、
国内はもとより 東アジア全体の動向を敏感に反映し、
歴史上重要な役割を担ってきました。
660年には百済が唐・新羅連合軍に敗れ我国に助けを求めてきます。
これを受けて時の天皇斉明女帝は自ら筑紫に下り、百済救援を指揮しようとします。
皇太子中大兄皇子以下、朝廷を挙げて筑紫に下って来ますが、
まもなく女帝は 朝倉橘広庭宮で没し、
663年朝鮮半島の白村江の戦いで 百済・日本連合軍は、唐・新羅軍に大敗を喫し、
半島からの完全な撤退を余儀なくされました。
そして唐・新羅に脅威を感じた日本は
天智3年(664)対馬壱岐及び筑紫防人(とぶひ)を置き、
筑紫には大堤を築いて水を貯えた水城を造.ることになります。
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遠の朝廷と称された太宰府は、今も万葉びとの生命が息づいています。
政庁跡・水城跡・観世音寺などの古跡にたたずむと、
大伴旅人・山上憶良・沙弥満誓・たちの歌声が千三百年の時を超え、私達の耳に響いてきます。
「万葉を歩く」の9回目は、
そんな筑紫路の歌碑をめぐって、万葉びとの息づきに触れたいと…

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衣掛神社の入り口に

♪、凡ならば かもかもせむを恐みと 振りいたき袖を 忍びてあるかも
(巻6・965 娘子 児島)
普通の人ならああもしたいこうもしたい。でも貴方は偉いお方、振りたくてならない袖も、じっと我慢しています。

♪、ますらをと 思へるわれや水くきの 水城のうえに なみだのごはむ
(巻6・968 大伴旅人)

天平2年(730年)12月、大納言になって奈良の都に帰る大伴旅人は、水城に馬をとどめ大宰府の方を振り返るのでした。
ここまで部下の官人たちや名残を惜しむ人々が見送りに来ていて、その中に児島という遊行女婦も混じっていました。




国分尼寺跡
・・・
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筑紫国分寺跡・・・
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国分天満宮の境内
♪、大野山 霧立ち渡る 我が嘆く 息嘯(おきそ)の風に 霧立ち渡る
(巻5・799・山上憶良)
(旅人の妻が亡くなった時、なぐさめた歌です。)  悲嘆に沈むため息で、霧が立ちわたっています
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坂本八幡境内
♪、わが岡に さ男鹿来鳴く初萩の 花嬬問ひに来鳴くさ男鹿
(巻8-1541 大伴旅人)
私の住む岡に牡鹿が来て鳴いている。今年初めての萩の花が咲き、牡鹿がやってきて 妻問いをしているよ。
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大宰府政庁跡裏
♪、世の中は 空しきものと知る時し いよゝますます 悲しかりけり
(巻5-793 大伴旅人
世の中はむなしいものだとつくづく知る時、いよいよますます悲哀の感を新たにすることだ。
   旅人の妻が、大宰府について間もなく亡くなります。
旅人の受けた打撃は深刻だったようです。
   その時に受けた弔問に応える歌が、万葉集巻五の冒頭に掲げられている。

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大宰府政庁跡西側
♪、正月立ち 春の来たらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ
(巻5-815 大弐紀卿)
正月になり春がきたので、このように梅を招いて、楽しい日を過ごそう。
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大宰府政庁跡前
♪、やすみしし わご大君の 食国は 倭も此処も 同じとそ思ふ
 
(巻6・956 大伴旅人)
大宰少弐石川足人に「さす竹の 大宮人の家と住む 佐保の山をば 思ふやも君 」
大伴氏の邸宅がある佐保(奈良の都)が恋しくありませんかと尋ねられたのに対して、旅人が詠んだ歌です。
「天皇が治めている国だから、大和も大宰府も同じですよ。そんなに都が恋しくはありません。」と答えたのでした

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大宰府展示館横
♪、あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今さかりなり
(巻3-328 小野老)
老と書いてオユと読む。大伴旅人の少し後に少弐として太宰府に着任しました。小野老の太宰府着任を祝う宴で詠まれた歌です。
      老の死後、老の遺体は荼毘に付され、骨送使の手により、彼が愛して止むことのなかった平城京の地に帰っています。
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大宰府展示館
大宰府政庁跡の東側にあり、大宰府跡の発掘調査により出土した、
平安時代の溝をそのまま公開すると共に、
大宰府の歴史を紹介する出土品や復元模型などの資料を展示しています。

下写真のジオラマは
天平2年(730)正月13日、太宰帥大伴旅人邸で行われた梅花の宴
この宴には、太宰府の役人達のほか、九州各国の国司が参加し、
梅をテーマに歌を詠みました。
万葉集巻五に三十二首が載っています。



「筑紫歌壇」
奈良時代の初めの神亀年間から天平年間にかけての数年、大宰府には
大宰帥大伴旅人、少弐小野老、筑前国守山上憶良、造観世音寺別当沙弥満誓娘子児島大伴坂上郎女
などの人々が会し、
「万葉集」に収められた数々の歌を残しました。
それを後の人が称して
「筑紫歌壇」と言います。
筑紫で詠まれた歌は約320首、
関係が深いと考えられる歌は、約57首あります。


水垣さんのホームページ『やまとうた』より
山上憶良  大伴旅人  小野老  沙弥満誓 娘子児島  大伴坂上郎女
  
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印クリックで、 HPより

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観世音寺公民館前
♪、瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ
(巻5-802 山上憶良)
瓜を食べると、子どものことが思われる。栗を食べると一層子どものことが偲ばれる。
子どもはどこからきたものであろうか。眼前にむやみにちらついて安眠させてくれない。

♪、銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
(巻5-803 山上憶良)
銀も金も珠玉も子どもの愛に比べれば何になろうか。どんな秀れた宝も子どもには及ばない。
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観世音寺
本尊は阿弥陀如来(金堂本尊)と聖観音(本堂本尊)、開基は天智天皇。
奈良時代に創建され、九州を代表する古寺で、
平安時代以降は徐々に衰退したが、
仏像をはじめとする文化財を豊富に有するお寺で、宝蔵は一見の価値あり。
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観世音寺境内
♪、しらぬひ 筑紫の綿は身につけて いまだは着ねど 暖かに見ゆ
(巻3-336 沙弥満誓)
筑紫の真綿はまだ身に着けて着てみたことはないけれど見るからに暖かそうであるよ。
綿は筑紫の特産物でありました。
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観世音寺の宝蔵
 『源氏物語』にも登場する観世音寺は、
斉明天皇追悼のために天智天皇の発願によって建てられた寺です。
発願から約80年後の746年(天平18)に完成し、九州寺院の中心的存在として繁栄しました。
観世音寺創建時からのものは、ほとんどありませんが、
国宝梵鐘をはじめとして平安時代・鎌倉時代の仏像など多くの貴重な文化財が残されており、
そのいずれもが重要文化財に指定されています。
中でも高さ517糎の不空羂索観音立像や503糎の馬頭観音立像は圧巻です。

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太宰府小学校横
♪、妹が見し御うち楝の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに
(巻5-798 山上憶良)
妻が見た楝(せんだん)の花は、きっと散ってしまうだろう。妻を亡くした悲しみの涙がまだ消えないうちに。
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西鉄太宰府駅前の常夜燈

♪、今もかも 大城の山にほととぎす 鳴きとよむらむ われなけれども
(巻8-1474 大伴坂上郎女
今頃は、大城の山でホトトギスがさかんに鳴きたてていることであろう。わたしはそこ(大宰府)にいないけれども。
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太宰府は今年2回目の訪問です
・・・だから太宰府天満宮の事は今回省略します。



太宰府天満宮境内
♪わが苑に 梅の花散る久方の 天より雪の 流れくるかも
(巻5-822 大伴旅人)
わたしの園に梅の花が散っている。それとも天から雪が流れてくるのであろうか。
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太宰府天満宮菖蒲池畔
♪、よろつよにとしはきふともうめのはなたゆることなくさきわたるべし
(巻5-830 佐氏子首)
はるかな世までも年は来ては過ぎ去ってゆくが、梅の花は絶ゆることなく咲き続けることであろう。
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お石茶屋レンガトンネル〔太宰府天満宮梅林裏〕
天満宮本殿の裏にある「お石茶屋」 古くからある有名なお茶屋さんです。
女主人が「お石さん」・・・とっても美人だったそうです。
昔の著名な政治家、文化人〔犬養毅・佐藤栄作・等〕も通ったそうです。
なんでも、佐藤栄作氏は政治家になる前、
この近くのJR駅の駅長をしていたとか・・・(国鉄・二日市駅)

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お石茶屋の裏に風情のあるレンガ造りのトンネルがあります。
美人のお石さんを好きだった福岡飯塚の炭鉱王麻生太吉と言う人が、山をぐるりと越えて茶店に
通っていたお石さんの為に、このトンネルを掘ってあげたという話です。


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天開稲荷社〔お石茶屋から10分位で・・・〕
北神苑丘陵の上方の景勝地にあり、宇迦之御魂神をお祀りしています。
鎌倉末期に京都から宮司邸の邸内社として勧請され、その後現在の地に遷されました。
毎月1日には、月次祭が斎行され旧暦の初午の日には
春の大祭として初午祭の祭典が盛大に執り行われます。


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お昼からは福岡へ、姪浜渡船場から小さなフェリーで防人の島・能古島へ渡ります。
フェリーの所要時間はたったの10分

防人
防人〔崎人〕は、筑紫・壱岐・対馬などの北九州の防衛にあたった兵士たちのことです。
664年に中大兄皇が防人と烽・烽火(のろし))の制度をおいてからのことです。
前年(663年)の朝鮮半島での白村江の戦いに負け、その防衛のためだったのでしょう。
防人には東国の人たちが選ばれました。東国の力を削ぐためだったらしいです。
任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替ですが、簡単には帰してはもらえなかったようです。
万葉集に残る防人の歌の大半が、家族と離れる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を
祈る気持ちを読んだものなのです。

 ♪、防人の 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ もの思もせず(巻20・4425)
                    召集されて行く行列を眺めながらの、防人の妻の叫びの歌です。

能古島は博多湾に浮かぶ身近なレジャーの島です。福岡市姪浜港からフェリーで10分、
能古島港に到着します。能古島は周囲12キロ、一番高い山は195mの島で、緑豊かな自然と
歴史に恵まれた美しい島です。奈良時代は防人が置かれた重要な島でありました。
島北部(也良岬)には、山上憶良の作と言われている万葉歌碑などがあり、島の歴史の古さが分かります。


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能古焼古窯跡脇
♪、風吹けば 沖つ白波 かしこみと 能許の泊に あまたよそぬる
(3673)
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也良崎の万葉歌碑
♪、沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の崎守 早く告げこそ
(3866)
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今年の1月1日に訪れた時は、なァ〜んにもナイ島でした。
半年の間に、2度もおとずれることになろいとは・・・






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