シリーズ・万葉集を歩く  第8回    2008年4月20日


多武峯
(中大兄皇子・中臣鎌足・鏡王女)飛鳥川(万葉歌碑を訪ねる)




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大阪茶屋町=(バス)=阪神高速・南阪奈=談山神社談(かたらい)山御破裂山
談山神社念誦崛(ねずき)西大門跡薄墨桜多武峯観光ホテル(昼食)=(バス)
=聖林寺拝観=飛鳥寺駐車場小原神社飛鳥座神社万葉歌碑飛鳥川万葉歌碑
甘樫丘飛鳥寺駐車場=(バス)=南阪奈・阪神高速=大阪              


多武峯の第一歩は談山神社から
舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。
この時、中臣鎌子(後の
藤原鎌足)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。
たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会があったとき、聡明な皇太子として知られていた
中大兄皇子
(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰の山中に登って
大化改新の談合
を行いました。後にこの山を「
談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
天智天皇8年(669)10月、鎌足の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、大織冠の位を
授けて内大臣に任じ、
藤原の姓を賜りました。藤原の姓はここに始まります。鎌足公の没後、長男の定慧
留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し十三重塔を建立しました。大宝元年
(701)には神殿が
創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。
(談山神社・略記より)
多武峯の談山神社は秋の紅葉の頃が有名ですが、
サクラ
の季節もなかなかのものです。
談山神社には鏡女王の絵馬がありました。
鏡女王鏡王の娘で、額田王です。
(額田王は中大兄皇子と大海人皇子との三角関係で知られています。)
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万葉集の中でも秀歌とされる
鏡女王の歌ひとつ
 ♪、神名火の 伊波瀬の社の 呼子鳥 いたくな鳴きそ わが恋まさる
(巻8-1419)
誰に送った歌なのか、定かでありませんが、もしかして大海人皇子だったのかも・・・
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鏡女王の最初の恋の相手は中大兄皇子と考えられます。
万葉集に最初に登場する相聞歌は、この二人のものです。
 ♪、妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを
(巻2-91)中大兄皇子
 ♪、秋山の 樹の下隠り 逝く水の われこそ益さめ 御思よりは
   
(巻2−92)鏡王女よりの答えし歌

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その鏡王女から、中大兄皇子を奪ったのは額田王でした。
(額田王、近江天皇を思ひて作る歌一首)

 ♪、君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹
(巻4−488)
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この人もなげな妹の歌の前に、姉の鏡王女は 力なく呟くほかありませんでした。
 ♪、風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ
(巻4−489)鏡王女
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彼女(鏡王女)にかかわつてくる、もうひとりの大物は中臣鎌子(藤原鎌足)でした。
鎌足が鏡王女に求婚したのか、中大兄皇子が鎌足に与えたのかは疑問ですが、はじめて鎌足を受け入れた時に、作った歌は
 ♪、玉くしげ 覆ふを安み 開けて行かば 君が名はあれど わが名し惜しも
(巻2−93)鏡王女
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「玉くしげ」の歌で、「あなたと並べられて囁かれるのは口惜しい…」と
詠んだ鏡王女に対して
、老獪な鎌足は腹などたてず、にんまり笑いながら、次の歌を作ってのでしょう。
 
♪、玉くしげ みむろの山の さなかずら さ寝ずはつひに ありかつましじ
(巻2−94)
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・・・こうして、鏡王女は鎌足の正室に迎えられ、
後半生を共に暮らすこととなります。
・・・


談山・・・御相談所
本殿の裏には鎌足と中大兄皇子が相談 (大化の改新を…) した
談山(かたらいやま)566mがあり、折角だから、登りました。


御相談所から一気に250m駆け上がると御破裂山です。
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名の由来は、古来、天下に事変が起ころうとするとき、神像が破裂し山上から鴫動が起こるといいます。
山の東から鳴動するときは、朝廷に異変があり、南からするときば幕府に、
北よりすれば氏人に、西よりすれば万民に、
山の中央が鳴動すれば多武峰の寺に異変が起こると伝えられておりました。

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頂上に藤原鎌足公墓所があり、裏手が展望所で、
切り開きから奈良盆地の大和三山や二上山が望めます。
御破裂山からの眺めで、眼下に奈良盆地が広がります。
カーソルを 写真に出し入れ してみて下さい。 ↓↑


念誦崛(ねずき)
多武峯の奥の院である念誦崛は、
増賀上人
が念仏三昧のまま入滅された山地です。
増賀上人は参議・橘恒平の子で、幼時から信仰心厚く逸話に富む聖(ひじり)でした。
まず比叡山で<慈恵につき修行していましたが、悟るところあって、
多武峯に来り.ひたすら念仏にあけくれそのまま
八十七歳の生涯を終えました。
その臨終の長保五年(1003)六月八日
 ♪、みつはさす八十余りの老の波海月(くらげ)の骨にあひにけるかな
との辞世をのこし翌九日金剛印を結び没したといいます。(『今昔物語』)。

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この地は、斉明天皇の行宮のあった両槻宮跡とされています。
日本書紀
には斎明帝の奇行に陰の批判があったことが記されています。
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その
日本書紀の「訳」は
  多武峯のてっぺんに、廻りをかこう塀を造りました。
そして、そこの二本の
つきの木の傍に高殿を建てて両槻宮という名を付けました。
また天宮(あまつみや)ともいいました。
  天皇は工事が好きでしたので、香久山の西から石上山まで、水道工事をさせました。
  又、二百そうの舟で石上山の石を積んで運んできて、宮の東の山に石垣を造らせました。
  人々が陰口をたたきました。
  クレイジーだよ、水道工事に三万人、石垣工事に七万人も無駄につかって。
材木が腐って、
山頂がつぶれたよ。
「石の山を造っても、造る端から壊れていくよ。」
・・・と
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この斉明天皇の奇行は、帝が「道教」を取り入れたのが原因という説が大半ですが
推理作家の松本清張
は、自著の「火の路」で、ゾロアスター教だと推理しています。

女人禁制の石柱
この地は旧多武峯妙楽寺・西門の跡で、中世より明治元年まで、
女性の立ち入りを禁じた結界の地でした。



多武峯の薄墨桜
談山神社を見渡せる高台にあります。
秋の紅葉のころ、ココからの談山神社が・・・
絶好の撮影ポイントですよ


本日の昼食は、多武峯観光ホテルでいただきました。


聖林寺
多武峯から明日香へ向かう途中に、藤原家の氏寺、
妙楽寺(現、談山神社)の別院として創建された古刹・聖林寺があります。


古い伽藍は失っていますが、それでも天平以降各時代の仏像、仏画を今に伝え、
本尊には 子授け の祈願仏、霊験あらたかな大きな石地蔵をお祀りしています。

門前からは卑弥呼のお墓とも言われる箸墓などの古墳を含む大和盆地の東半分と山辺の道、
三輪山を一望のもとに見ることが出来ます。


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聖林寺といえば、何といっても日本仏像彫刻最高の優作といわれる
十一面観音さまを語らねば・・・

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「聖林寺・十一面観音縁起より」
第一回指定の国宝、天平時代を代表する美しい仏像として知られているこの仏さまは、大神神社の神宮寺、三輪山・大御輪寺
の元の本尊です。天平神護年間前後、西暦七六二年から七六九年の間に東大寺の造仏所で造像され、その願主は智努王
(ちぬのおおきみ・文室真人浄三、天武天皇の孫)とする説が有力です。造像の由縁はよく分かっておりませんが、わが国発祥
の地、古代大和王権の中心地に祭られた意義は大きく、時の孝謙女帝が何らかの関与をしたでありましょう。
長く三輪の本地仏で秘仏としてまつられてきましたが、神仏分離令を受けて、高僧、大心(聖林寺再興七世)によってこの寺に
運ばれました。観音はかつて四天王に守られ前立観音があり、左右に多くの仏像が並び立ち(現法隆寺の地蔵菩薩=国宝は
左脇侍です。)背面には薬師如来一万体が描かれた板絵がある荘厳の中にまつられてきました。現在、奈良国立博物館に寄
託している光背は大破していますが、宝相華文をちりばめた見事なもので、その復元が望まれます。





聖林寺拝観の後は、明日香へ・・・飛鳥寺の駐車場へバスを停め
万葉歌碑をめぐります。





小原の里

飛鳥坐神社の右横の緩やかなカーブを上って行くと、小原の里があります。
小原と書いて「おおはら」と読みます
鎌足の生母大伴夫人の墓があります。
石柱と、少し登ったところの、丸く土盛りされたものがお墓らしい・・・


小原の里・大伴夫人の墓の近くに、藤原鎌足の誕生の地と伝える大原神社があり
万葉歌碑がふたつ並んで、あります。
天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首
 ♪、わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし 里に 落らまくはのち
(巻2 103)天武天皇
藤原夫人、こたへ奉る歌一首
 ♪、わが岡の おかみに言ひて 落らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
(巻2 104)藤原夫人
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藤原夫人
とは、藤原鎌足の娘・五百重娘の事で、大原大刀自とも呼ばれ
天武天皇の后に次ぐ位の「夫人」として仕え、新田部皇子を生みました。

天皇が飛鳥の清御原の宮殿におられて、そこから少し離れた大原の夫人に贈られた。
夫人の住む所をふざけて悪く言い、夫人もまた劣らぬユーモアでお答えしている。
お互いの親愛の情がほのぼのと感じられる贈答歌です。



飛鳥坐神社の正面の石段を上がった所に万葉歌碑があります。
 ♪、大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田居を 都となしつ
(巻19-4260)大伴卿
 【訳】天皇(天武)は神であられるから(壬申の乱の後)赤駒が腹ばう田を都となされたよ
詠み人の「大伴卿」とは・・・ココをクリック

飛鳥坐神社は、
毎年、2月・第1日曜日のお田植神事「お田植祭」 には夫婦和合の所作があり、
奇祭として知られていて、境内には、男性器を模した石が多く安置されています。


飛鳥水落遺跡
日本書紀に斉明6年(660)、中大兄皇子がはじめて漏剋(水時計)をつくった記事があります。
この水時計を据えた時計台の遺跡が、飛鳥寺の西方で発見されました。
貼石のある四角い土壇に、4間四方の楼状建物が建ちます。土壇をつくる途中で礎石を据え、
礎石間には自然石を連結した、地中梁工法ともいえる堅固なつくりとなっています。
建物と一体で黒漆塗りの木箱、木樋暗渠、枡、銅管など、
水を使用するいろいろな仕掛けがつくられていたらしいです。



飛鳥川沿いに ならぶ 万葉歌碑を巡ります。


所在地、明日香村飛鳥(甘樫橋東・文化財課事務所前休憩園地)
  「今日可聞 明日香河乃 夕不離 川津鳴瀬之 清有良武」・揮毫犬養孝
 
♪、今日もかも 明日香の川の夕去らず かはづ鳴く瀬の さやけくあらむ
(巻3-356)上古麿
     大意・・・明日香の川の、毎夕かえるの鳴く瀬が今日も清らかなことであろうか。


所在地、雷・甘樫丘向いの飛鳥川河原
 ♪、飛ぶ鳥の 明日香の里を おきて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ
(「巻1-78)
詠み人未詳
    平城遷都の時、長屋原にて・「アスカ古京を 置き去りにすれば、あなたの辺りは見えなくなろうか」
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「飛鳥」をなぜ「あすか」と読む?
「この歌のように、、「飛ぶ鳥」が「明日香」の枕詞として用いられているから。」という説があります。
モンゴル系の言葉で、アスカは鳥の翼とか、羽などの意味があるので、それから来たのだとも。



所在地、雷・雷橋の上流の道端
 ♪、我が屋戸に 蒔きし撫子いつしかも 花に咲きなむなそへつつ見む
(「巻8-1448)大伴家持
     わが家に 種をまいた ナデシコ ・ いつしか花がさいたら あなたを花と思って見ましょうよ
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これは、家持が坂上大嬢に贈った歌で、恋人・大嬢を撫子の花に擬えているのであろう。
坂上大嬢は大伴坂上郎女の長女。家持にとっては妻である以前に従妹でありました。
いとこ同士の恋愛・結婚は、当時ありふれたものである。と言っても、推奨されていたわけではありませんが

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撫子(ナデシコ)…この花の名は「撫で」を含み、「手に取り持ちて」の句と呼応する。庭に植えたのを、
ただ眺めて賞美したいのではなく、手にとって愛撫したい、という意味では・・・。
 ♪、撫子がその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ
(巻3−408)大伴家持


所在地、雷・雷橋の上流の河原
 ♪、明日香川 明日も渡らむ石橋の 遠き心は 思ほえぬかも
(巻11−2701)詠み人 未詳
  明日香川を明日も渡って逢いに行きましょう。私の心は石橋のように 
飛び飛びじゃなくて、ず〜と貴方のことを思っていますよ。
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歌の石橋(いわはし)は、対岸に渡るため川中に置いた飛石です。
                        今日は飛び石がなく、グルっと回って対岸へ・・・



明日香の万葉歌碑巡りの甘樫丘
甘樫丘は、古くは『日本書紀』などの中にもその記述がみられ、7世紀前期には当時の有力者
であった蘇我蝦夷、入鹿(いるか)親子が大邸宅を構えていた場所であるともいわれています。
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古くから誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座した。允恭天皇のとき、盟神探湯(くかたち)が行われた。
山腹には明日香村の保全に尽力した故
犬養孝氏揮毫の万葉歌碑(志貴皇子、巻1-51)があります。
  明日香の宮より藤原の宮に遷居せし後に、志貴皇子の作らす歌0
♪、采女の 袖ふきかへす明日香風 都を遠み いたづらに吹く
(巻1-51)志貴皇子
  飛鳥に来てみれば、いまは都も遠く移り、かつて都であったなら采女らの
  袖を吹き返したであろう明日香風も、ただ空しく吹くのみであることよ・・・、


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志貴皇子は天智天皇の皇子で、壬申の乱以後は皇位継承から外れた傍系にありました。
それでも、天武、持統両天皇に評価されたのか、宮廷においては、異母兄弟の川嶋皇子と供
に厚遇されていたようです。

皇位の継承が、40天武帝・・・45聖武帝→46孝謙帝→47淳仁帝→48称徳帝と続き、
称徳帝までは天武帝の系列ですが
49光仁帝からは天智天皇の系列となり、この光仁天皇の父
志貴皇子です。

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万葉集には、志貴皇子の歌が六首載せられています。
51采女の・・・」の他の五首は
 ♪、葦辺ゆく 鴨の羽交に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ
(0064)
 ♪、むささびは 木末求むとあしひきの 山の猟師に逢ひにけるかも
(0267)
 ♪、大原の このいち柴のいつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも
(0513)
 ♪、石ばしる 垂水の上のさわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
(1418)
 ♪、神なびの 石瀬の杜のほととぎす ならしの岡に いつか来鳴かむ
(1466)
いづれも、すがすがしい秀作ですネ。

甘樫丘の頂上は標高148m。古代史の舞台となった藤原京跡や大和三山、
遠くには生駒山、二上山、葛城山、金剛山系の山並みを一望できます。
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いろいろ巡っている内に、日も暮れかかつて・・・右の台形の山は畝傍、
其の うしろに、コブ状の二上山が寄り添うように佇んでおりました。










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