万葉集を歩く  第6回

紀伊万葉を訪ねる

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大阪梅田茶屋町7:30阪神・西名阪=道の駅(たいま)=真土山=紀ノ川万葉の里=
紀三井寺(はやし)昼食=和歌の浦・観海閣-不老橋-玉津島神社-万葉館
= 藤白神社(有間皇子の墓) 海南IC=阪和道=阪神高速 難波=梅田

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今から一三〇〇年ほど前に、万葉びとは紀伊国(和歌山県)に107首ほどの歌を残しました。
奈良から紀伊国を訪れた万葉びとは、紀伊国の山と海の織りなす大自然の美しさに感動し、
その地に残る歴史と伝説に興味をそそられ、それを歌に残したのでしょう。          0
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その歌は紀の川筋(当時、奈良から和歌山へのメインルート「南海道」はこの道筋でした
そして加太、和歌浦から 白浜温泉までの海岸線に沿って歌われています。
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真土山
まつちやま
万葉びとが、大和から紀伊国へ向かい、最初に越えるのが五条市と橋本市の境にある『真土山』でした。
 ♪あさもよし 紀人ともしも 真土山 行き来と見らむ 紀人ともしも(巻1−55) 
 ♪あさもよし 紀伊へ行く君が 真土山 越ゆらむ けふこそ 雨な降りそね(巻9−1680) 
 ♪真土山 越え行きて  川原に ひとりかも寝む(巻3−298)

真土山は、都で待つ人にも知られた国境の山・・・旅立つ人、残る人の心が切なく交差する場所でもありました。
 ♪いで我が駒 早く行きこそ 真土山 待つらむ妹を 行きてはや見む(巻12−3154)

の 行幸のまにま もののふの 八十の男と 行きし 愛は 天飛ぶや
の路より 玉たすき 畝傍を見つつ あさもよし 紀伊に入り立ち 真 越ゆ
らむ君は 黄葉の 散り飛ぶ 見つつ にきびにし 我れは思はず
 草枕 旅をよろしと
思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに もえあらねば
我が背が 行きのまにまに 追はむとは 千たび思へど たわやの 我が身にしあ
れば 道の 問はむ答を 言ひやらむ すべを知らにと 立ちてつまづく
(笠朝臣金村)巻4−543
聖武天皇の紀伊行幸に従駕した夫のことを想っテ・・・旅の解放感で私など忘れているでしょうという妻の歌、。


飛び越え石
和歌山、奈良県境を北から南へ流れて紀の川に注ぐ落合川の下流に「飛び越え石」と名づけられた
渡り場があります。大和国から紀伊国への古代からの交通路であり、ほんのひとまたぎで落合川を
越えられる石が並んでいます。本日は雪で滑るため、飛び越えを躊躇しました。
この飛び越え石を詠んだ歌に
 ♪白たへに にほう真土の 山川に わが馬なづむ 家恋ふるらしも
飛び越え石を前に馬が行き悩み、留守宅の者が旅に出た者を恋しがっているだろうと、郷愁を訴えています。


妹山背山
道の駅「紀ノ川・万葉の里」からは紀ノ川を挟んで「妹山」と「背山」が望めます。
小さな山ですが、一五首もの多くの歌が詠まれていて、紀伊万葉を代表する山です。
現在の地名で言えば、伊都郡かつらぎ町、背山の下にJR和歌山線西笠田駅があります。
ちなみに万葉集では、筑波山に次いで多く、富士山よりもたくさん詠まれているのです。

紀の川筋を歩く当時の旅人の目には、ずっと見え続けた印象深い山だったのです。
それに山の名が妹山・背山と、当時の恋人(夫婦)を呼ぶ「妹」「背」という名を背負った山
だっただけに、都に妻・恋人を残して旅する人々にとっては、大変関心をそそられた山だっ
たことでしょう。
 ♪我妹子に我が恋ひ行けばともしくも並び居るかも妹と背の山(万葉集巻七、1210)
 ♪妹に恋ひ我が越え行けば背の山の妹に恋ひずてあるがともしさ(万葉集巻七、1208)

家郷に恋しい人を残して旅する者には、夫婦(恋人)相並んだ妹山・背山の姿にうらやましさを
覚えたのだと思います。

 丹比真人笠麻呂、紀伊国に往き、勢能山を越ゆる時に作る歌一首
 ♪たくひれの懸けまく欲しき妹の名をこの勢能山にかけばいかにあらむ(万葉集巻三、285)
 春日蔵首老、即ち和ふる歌一首
 ♪宜しなへ我が背の君が負ひ来にしこの勢能山を妹とは呼ばじ(万葉集巻三、286)
この二首は、丹比真人笠麻呂と春日蔵首老とが、背山に妹という名を付けるかどうかをめぐって
当意即妙のやりとりをしているものです。
 二人のこの軽妙なやりとりからは、「勢能山」の「勢」に「背」を思い、それにともなって
「妹」が連想されていることがわかります。そしてこの連想こそが、妹山・背山が万葉びとの旅
ごころをとらえた大きな要因であったのではないでしょうか。恋人・妻を家郷に残して旅行く男たち
にとって、セ→背→妹という意識の流れはごく自然なものであったでしょう。


ここで思い出すのはお芝居の『妹背山婦女庭訓』の三段目・「山の場」です。
しかし、あの舞台の中央を流れる川は吉野川・・・何処でちがったのか?、
吉野川としたのは、桜満開の晴れやかな舞台にすべく、作者の一工夫でしょうか。

お芝居の舞台では、向かって左が 大和の国・妹山、右が 紀伊の国・背山になっています。
ところが川の流れが上から下へ…実際とは反対になっているのが…疑問の残すところです

妹背山婦女庭訓』の事を、もう少し知りたいお方は・・・ココ


紀三井寺で昼食の後、和歌の浦に向かいます。   



和歌浦
724年、聖武天皇が即位したその年に、宮廷歌人の山部赤人らを伴って行幸に訪れたのが和歌浦です。
若き天皇の目に映った感激から、和歌浦の紀伊万葉の歴史がはじまつたとも、言われています。
当時、紀ノ川は河口を和歌の浦に大きく開き、そこに小島を六つ浮かべていて、それが玉津島です。
現在それらは妹背山鏡山雲蓋山妙見山船頭山の名で呼ばれ、妹背山一つを海上に残して他は
陸地化しています。

(不老橋)紀州徳川家10代藩主治宝公が中国の杭州の六橋を手本にして造らせた石の橋で、
その名のとおり、橋を渡れば不老長寿(長生きできる)が叶うといわれた。


妹背山観海閣
 こんなところにも妹背山が???
観海閣は紀三井寺の拝殿として初代藩主・徳川頼宣が建立したといわれています。

妹背山観海閣に渡る三断橋
この”三断橋”は、県内に残る最古の石橋です。中国の杭州西湖にかかる六橋を模したと言われています。


鹽竈神社
万葉の時代から人々に親しまれてきた風光明媚な和歌の浦に位置し、鹽槌翁尊をお祀りしています。
尊は人々の出生・生命を守護する神様として厚い信仰を受けています。


玉津島神社
当初、稚日女尊のみを祀っていましたが、後に、稚日女尊を尊崇する神功皇后(息長足姫尊)を合祀。
さらに、衣通姫尊を合祀し、女神三神を祀る神社です。
聖武天皇神亀元年(724)、玉津島の行宮へ幸したおり、弱浦(わかのうら)という名を改めて、
明光(あか)の浦とした時、衣通姫尊が示現して詠んだ歌は
 ♪立ち帰り 又も此の世に跡たれん 名も面白き わかの浦浪
以来、衣通姫尊が主祭神の位置になり、住吉、人丸と並んで、和歌三神と呼ばれるようになりました。



藤白坂・有間皇子終焉の地(藤白神社)
有間皇子は孝徳天皇の息子。舒明・斉明・天智と続いていく皇統からはやや傍系に属した皇子でした。
当時のまことに厳しい政治状況・皇位継承争いの中で、蘇我赤兄にそそのかされて謀反への道を歩み、
若き命を落とすことになってしまったのでした。
有間皇子事件の顛末は『日本書紀』斉明天皇四年(六五八)十月、十一月条に詳しく書き残されています。
クーデター計画が発覚し、有間皇子は捉えられ、その時斉明天皇や皇太子(中大兄皇子、後の天智天皇)
の滞在していた紀温湯(牟婁温湯。現在の白浜温泉崎の湯)に護送されます。
皇子を待ちうけた皇太子は、皇子に問い質しました。「何の故か謀反けむとする」〔なぜおまえはクーデター
を起こそうとしたのか〕と。皇子は答えました。「天と赤兄と知らむ。吾全ら解らず」〔真相は天と赤兄(そして
あなた)のみが知っていることでございましょう。私はまったく関知いたしません〕と。そして都へ帰される途中
藤白坂(現、海南市)で丹比小沢連国襲の手にかかり、十九歳の短い生涯を終えたのでした。
そして、この事件の折に有間皇子の詠んだ歌が万葉集に残されています。
 ♪磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへり見む(万葉集巻二、0141)
またその四十三年後にこの地を通った行幸のお供の人々が皇子を傷んで詠んだ歌も残されています。
 ♪磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも(巻二、0143、長意吉麻呂)


大化の改新以降の政治の中心人物は中大兄皇子(天智天皇)だった。しかし,皇位継承などで
しばしば争いが起きたこの時代のこと,中大兄皇子にとっても自らの立場を安定させるためには
今後起きるかもしれない争いを予想し、事前に取り去っておくことは重要なことでもあった。
その最大のライバルが有間皇子だったのでしょう。


♪、家にあれば 笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(02/0142)